あのコロナ騒動から何を学ぶのか

このリストは、2020年以降のコロナ対策・ワクチン政策をめぐる「説明」や「広報」において、使われた言葉や論理の中に潜む構造・操作性を分析したものです。特定の立場に偏ることなく、個人が冷静に情報を読み解き、主体的に判断する力を養うための資料です。


【✒️ はじめに:パンデミックとは何だったのか】

パンデミックとは、本当に人類絶滅の危機だったのか。それとも、社会全体を巻き込んだ巨大な演出だったのか。見方によっては、世界規模で行われた情報操作実験のようにも見える。

当時、テレビは連日、感染者数と「不安」を届け続けた。その報道は、私たちの行動や思考、そして数年間の生活を制限したが、それに見合う価値は本当にあったのだろうか。

マスク、ワクチン、緊急事態宣言、黙食、接種証明──これらは果たして、科学的合理性に基づく判断だったのか。それとも、空気・同調・政治的要請に過ぎなかったのか。

本書は、そうした問いを「感情論」ではなく「構造理解」として捉え直すための試みである。

パンデミック対応では、検査・治療・隔離・ワクチン接種などに巨額の税金が使われた。現在、国民が感じている増税や財政逼迫は、当時の“請求書”を今になって支払わされている状態にほかならない。

全国の赤字病院は黒字化し、海外の製薬企業は莫大な利益を上げた。その背後にある財源は、私たちの税金だった。こうした仕組みを正確に把握していた人は、当時ほとんどいなかった。

“国の責任”だけでなく、“情報をそのまま信じた”私たちの姿勢も、意思決定の仕組みに組み込まれていた。

次に同じような事態が起きたとき、何を信じ、何を確かめ、何を拒否するのか──そのための「判断の準備」として、本書をまとめた。


【⚠️ 警戒すべき表現とその理由】

ここでは、過去のパンデミック報道やワクチン広報の中で頻出した「一見正しく見えるが、判断を曇らせる表現」を列挙し、その構造的意味と注意点を示します。

  • 「専門的配慮」:意味が明確でないまま権威に包まれた表現。実際は“よくわからない”や“意見が割れている”ことを覆い隠す役割を果たす。
  • 「一定の有効性が確認された」:ポジティブに聞こえるが、“一部には効くかも”という程度。どの程度か、誰にか、という情報が欠けたまま印象操作される。
  • 「短期的には安全」:“長期的な安全性は不明”という意味を言い換えている。副作用の出現が遅れるケースもある。
  • 「重篤な副作用は極めて稀」:そもそも報告体制が整っておらず、“稀”という表現の根拠が不明。
  • 「エビデンスに基づいて」:“選ばれたエビデンス”を用いた正当化にすぎない可能性がある。反証となるデータの黙殺に注意。
  • 「科学的には問題ない」:その“科学”が何を指すか不明確。現実の科学は常に未完成で、異論が存在するのが常態。
  • 「国際的に見ても一般的」:“海外もやってる”という印象だけで納得させる。文化的背景や医療体制の違いを無視。
  • 「軽い副反応が見られます」:その一言で“重い副作用はない”と思わせる話法。軽症例ばかり開示し、重症例は後回しにされがち。

▼ 特に注意すべき具体的な言葉

  • 「一定の効果が期待される」
  • 「専門家の間でもおおむね合意がある」
  • 「社会全体の利益を考えて」
  • 「今は非常時だから」
  • 「正確な情報を基に判断してほしい」
  • 「デマに惑わされないように」
  • 「誰でもかかる可能性がある」
  • 「ワクチンは唯一の対策です」

“唯一”という言葉は、他の選択肢の検討を排除し、議論を封じる効果がある。多様な対策が存在するなかで、あたかも一択しかないように伝えるのは、受け手の思考停止を促しかねない。

これらの言葉は善意のベールをまといながら、思考を止めさせる効果をもつ。
“理解を助ける”のではなく、“判断を誘導する”言葉には注意が必要だ。見かけの安心感に流されず、情報の背景や意図、何が語られていないかを冷静に見極め、自分の頭で考える習慣を持つこと。それが、将来の選択を誤らないための唯一の備えである。


【📌 実際におかしかったこと(観察事例)】

  • 飛沫感染防止の名目で「黙食」が奨励され、会話禁止の非人間的な飲食スタイルが一時常識化した。
  • 家庭内感染が大半であったにもかかわらず、濃厚接触者の定義は曖昧なまま隔離政策が強行された。
  • 修学旅行や卒業式が全面中止となり、子どもたちの人生の節目の経験が奪われた。
  • 芸術・文化活動が「不要不急」とされ、無観客や開催中止が続出した。
  • PCR陰性証明が行動の許可証のように機能し、実際の感染力とは無関係な「陰性信仰」が広まった。
  • 幼児や児童に対するマスクの強制が行われ、表情・呼吸・発声への悪影響が懸念された。
  • 家庭内においてもマスク着用を奨励する行政資料が配布され、私的空間への干渉が生じた。
  • 公園でのBBQや焚き火など、屋外活動にも自粛要請が及び、リスク評価よりも空気支配が優先された。
  • 医療従事者を「ヒーロー」と持ち上げる手拍子キャンペーンが流行し、現場の知らぬ者たちによる表層的な称賛が繰り返された。
  • 東京オリンピックは1年延期のうえ無観客で開催され、経済的・文化的損失が拡大した。
  • その影響もあり、現在の増税(消費税・保険料・地方税等)は一部で「コロナの後始末」として予見されていたが、当時は十分に議論されなかった。

【📅 パンデミック年表:記憶の再構成】

  • 2020年1月:中国・武漢で新型コロナウイルスが報道される
  • 2020年3月:全国一斉休校/トイレットペーパー買い占め騒動(SNSによる流言飛語が拡散、個人主義・不安心理の露呈)
  • 2020年3月:全国のスーパーでマスク・消毒液が品薄、入荷待ちで行列や買い占めが続出
  • 2020年3月:花見の自粛要請、屋外活動への圧力が始まる
  • 2020年3月25日:小池百合子東京都知事が「3密(密閉・密集・密接)を避けて」と記者会見で訴え、“3密”という概念が全国に拡散
  • 2020年4月:緊急事態宣言(第1回)発令、外出自粛と“マスク警察”出現
  • 2020年3月6日:PCR検査が保険適用により拡大、以降検査数が急増
  • 2020年5月13日:抗原検査キットが初めて承認され、臨床現場で使用開始
  • 2020年6月2日:唾液によるPCR検査が厚労省により認可、自己採取型も導入される
  • 2020年6月:アベノマスク配布、サイズ・効果・費用対効果などをめぐって混乱
  • 2020年7月:GoToキャンペーン開始、感染拡大との矛盾が指摘される
  • 2020年9月16日:菅義偉首相が就任。アベノマスク・GoTo政策・ワクチン戦略などを引き継ぎ、感染対策と経済政策の両立を模索
  • 2021年2月:医療従事者からワクチン接種開始
  • 2021年4月:高齢者への接種開始、接種証明や職場圧力が顕在化
  • 2021年7月:東京オリンピック無観客で開催、感染拡大と並行
  • 2021年10月:菅義偉首相が退陣し、岸田文雄首相に交代。コロナ対応の軸は維持されたまま、政権の支持率と連動する形で方針が調整される
  • 2022年:若年層や子どもへの接種が進行、副反応に関する議論がネット上で加熱
  • 2022年中盤以降:ワクチンに感染予防効果がないことが徐々に報道され始め、「高齢者の重症化を防ぐためのもの」という位置づけへと修正されていく
  • 2023年5月:新型コロナが感染症法上「5類」へ移行
  • 2024年以降:医療財政の逼迫と増税が本格化、「後始末」の兆候が顕在化

【🔭 これからのために】

この文書の読者の多くは、ペットと暮らし、日々の健康管理に責任をもっている飼い主たちである。

だが実際には「ワクチンを打つべきかどうか」という問いに対し、多くの人が獣医師や知人に判断を委ねてしまっている。それでは、あのパンデミック期と同じ構造だ。

本来、どんな薬でも“有効性”の前に“副作用”を確認しなければならない。そのリスクが不明な時点で接種するのは、情報不在のまま飛び込むようなものだ。

コロナワクチンの重篤な副作用や死亡例は、ごく一部しか医師によって認定されず、報告されていない例がその100倍以上あってもまったく不自然ではない。

この“氷山の一角”の構造は、ペット医療でも同様である。

もちろんコロナワクチンに比べ、ペットに使うワクチンの安全性は経験的に担保されている。

それでも、副作用に関するデータは少なく、臨床現場で共有されることも稀である。

「義務だから」「みんながやっているから」ではなく、情報の背景や仕組みを理解し、自ら判断する力こそが、飼い主としての本当の責任であり、ペットの命を守るための第一歩である。


多額の税を投入したコロナ騒動。当時の新聞、テレビ、政府高官を信じ、その結果として大切な何か(家族、友人、信頼、絆、時間、お金、仕事)を失った人もいます。 「言葉」はそのまま現実を表すのではなく、とくに我々を誘導する道具となります。表現を鵜呑みにせず、その背後にある意図・構造・省略を読み解くこと。 そのために必要なのは、誰かの言葉を信じることではなく、自分で確かめ、自分で判断するという姿勢です。

科学の基本は「疑うこと」です。盲目的に信じることは、科学の営みではありません。科学とは常に仮説を立て、検証し、反証されながら進歩してきました。

そして科学に限らず、すべての学問は人々を幸福にするために存在します。もし“科学の名のもとに”人々に不安や恐怖を与え続ける者がいたとすれば、それは科学に対する冒涜とも言えるのです。

失われた時間は戻ってきませんが、コロナ事変を忘れることなく、未来のための教訓にできるかどうか、私たちは問われています。

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