信念がなければ医療漬けになる日本

「薬はできるだけ使いたくないんです」
そう話す飼い主は少なくない。自然に、穏やかに、できるだけ負担なく過ごさせたい——誰もがそう願っている。

しかし現実には、通院は続き、薬の種類は増え、頻回検査に点滴も追加されていく。
なぜ、このような矛盾が生まれるのか。

日本人は世界的に見ても薬を多く使う国民だ。
それはけして体が弱いということが理由ではない。
むしろ「不安に敏感である」という国民性、そしてそれをうまくキャッチするビジネス医療の制度的背景がその傾向を支えている。

語弊を承知で言えば、それは多くの人が「信念」を持たずに判断しているからである。

たとえば、獣医師の「◯◯かもしれない」という一言で、不安が増殖し、言われるままに医療介入を受け入れてしまう。
ネットには膨大な情報が溢れ、周囲の声も交錯する。獣医師によって意見が分かれることで、何が正しいのか、ますます分からなくなる。

治療の妥当性を見極めようとセカンド、サードオピニオンを求めれば求めるほど、かえって判断基準が曖昧になっていく。

こうして情報過多が処理能力を超え、最終的には思考停止に近い状態で、「流されるように」医療を受けることになる。

ここで言う「信念」とは、「病院に行かない」とか「薬を一切使わない」といった極端な姿勢ではない。
どの段階で介入するのか、どこまでなら自然に任せるのか——あらかじめ自分の中に引いておく「線」のことだ。

その線は人によって異なって構わない。
だが、状況によってコロコロ変わるのであれば、それは信念とは呼べない。
風にたなびく公約のようなものであり、守る力を持たない。

「薬はできるだけ使いたくないんです」という言葉は、多くの飼い主から聞く。
しかし、それは信念ではなく、願望であることが多い。

「私はこう考える」という軸を持つこと。
その軸があれば、迷っても揺れすぎないし、後悔もしにくくなる。
医療とどう向き合うか、どのように介入するかは、自分自身の価値観に委ねられている。

健康の学習に本気で取り組む理由も、信念があれば自ずと明らかになるだろう。

情報に流されるのではなく、自らの「信念」で選び取る医療——
それこそが、これからの時代に求められる生き方である。

「This above all: to thine own self be true.」
(これが何より大切、自分自身に誠実であれ)
-シェイクスピア『ハムレット』より

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