こんにちは。
今日は、「美徳」という言葉について、少し考えてみたいと思います。
あまり日常では使わない言葉かもしれません。
もしかすると私たちは、この言葉を、すでに忘れかけているのかもしれません。
美徳は、私にとっても、実践できていない、理解しきれていない難しいテーマです。
上手く話せないかもしれませんが、どうか最後まで聞いて頂けますと嬉しく思います。
美徳とは、簡単に言えば、「美しい生き方」のことだと思います。
たぶん、正しくあること、強くあること、そうしたこととは少しニュアンスが違う気がしています。
“自分がどう在りたいか”に、忠実であろうとする姿勢。
それが、美徳なのだろうと思っています。
私の感覚からすると、頭と体の中心にスーッと伸びるようなもの。
別の言葉でいうと偽りのない信念、他の言葉なら軸、芯、幹と言ったものに近い気がします。
今回はその入口として、
「利己主義」と「利他主義」という二つの考え方から始めてみようと思います。
一つ目の利己主義とは、自分のために生きるという考え方です。
もう一方の利他主義とは、他人のために尽くすという考え方です。
この二つは、“対立するもの”として語られます。
でもこれはよく考えると階層として同じものなのです。
それでは利己主義ですべて説明してみましょう。
まず低次の利己主義ですが、これは目先の快楽や効率、利益を優先し、
「自分さえ良ければいい」という発想で動きます。
ちょっと言葉は悪いですが、自己中心的な考え方の段階です。
一方で、高次の利己主義があります。
それは、「どんな自分でありたいか」「どんな生き方に忠実でいたいか」
という、内なる理想に基づいた行動です。
私はときどき船に例えることがありますが、小回りがきいて好きなところに自由に行ける小型ボートと、天候に左右されずにしっかりと目的地を目指す大型客船のような違い。
何かを手に入れることを目的にしてその都度行き先を変えるのは、生き方としては少し忙しいかもしれませんね。
どうしても視点も眼の前のことばかりに向いてしまいます。
逆に自分の中にちゃんと理想があって、それを基準に物事を捉えるとき、心に余裕のようなものが生まれてきます。
すると視点が広くなってきて、自然と誰かを助けたり、支えたりするようになるのだと思います。
人を助けることで、心があたたかくなる。
誰かを笑顔にすることで、自分にエネルギーが湧いてくる。
つまり人を助けるという利他的な考えは、実は高次元の利己主義だということです。
勘違いしてしまうといけないので付け加えておきますが、低次や高次と言いましたが、それはどちらが良いとか悪いとかの話ではなくて、構造的にはそうなっていますという話です。
むしろSNSの普及によって、正しいか間違っているか、0か1かと二極化しやすい現代においては、中庸的な感覚は意識して大切にしたほうが良さそうです。
中庸というのは、中道と言ったりもしますが、どちらかを選ぶのではなく、両方を理解しようとする態度のことです。
あくまで私の解釈ではありますが、こうした構造の中に、美徳が生まれてくるのではないかと考えています。
ペットと暮らしている人は、たぶん自然と高次の利己主義になっています。
毎日の世話や健康のケアは当たり前のことであり、誰かに褒められることはありません。
でも、ペットの笑顔や元気な姿が自分自身を支えています。
つまり飼い主という立場は、意識せずとも、利他的な要素を取り入れた利己主義になっています。
ペットに喜びを与え、それを見て自分の幸せとする高次元構造です。
いまはどちらかというと損得や合理性が重視され、以前に比べると個人主義的な時代になっています。
それだけが要因だとは言いませんが、実際に日本においてのペットの数は激減しています。
犬猫に限れば、飼い主は1000万人台、国民全体の1割ちょっとしかいません。
ペットを飼うことが実際にはどんなことか、よくわからない人たちが増えてきています。
こうした時代の中で、飼い主はついつい情報やノイズに揺らいでしまうこともあるでしょう。
「この選択は間違っているのではないか」
「もっと効率的な方法があるのではないか」
「他人の目にどう映っているのだろうか」
だからこそ、美徳とは――
そうした揺らぎから自分をつなぎとめる、“船のいかり”のような存在です。
目には見えませんが、確かにそこにある「重さ」。
それが、自分を支えてくれます。
この考え方は、歴史の中にも息づいてきました。
儒教の「仁」や「礼」。
キリスト教の「隣人を愛しなさい」。
それらは、本来とても美しい教えです。
ただし、気をつけたいのは、どんなに素晴らしい理念でも、
それを他者に押しつけた瞬間に、美徳ではなくなってしまいます。
人類の歴史の中では、考え方の相違がときに争いの引き金になってしまいました。
だからこそ、美徳とはまず、
“自分の中”に静かに宿るものでなければならないのです。
変な話をしますが、もし今この時代にサムライが生きていたとしたら――
私たちは、彼の生き方に、何か美徳を感じるのではないでしょうか。
彼らが使う言葉に、「かたじけない」があります。
これは、身に余る恩義に、恐縮しながら感謝を捧げる言葉です。
そこには、へりくだりと敬意が、共に込められています。
常識を守ることが美徳なのではありません。
この時代にサムライがいたら非常識な人と思われるでしょう。
サムライは極端でしたが、“自分はどう在りたいか”を、しっかり軸として持っていて、それに基づいて自分にも他人にも誠実であること。
それこそが、美徳の本質と言えそうです。
私自身、もし若い頃に、武道や茶道、華道のような“道”に触れていたなら、
もっと早くこの感覚に気づいていたかもしれません。
ちなみに、私が美徳を意識するようになったのは、別のきっかけです。
それは――
ペットの健康相談から得てきた経験です。
気がつけばもう15年。
無償で、たくさんの相談に耳を傾けてきました。
自分でもよく続けているなと思います。
もちろん、嬉しいこともたくさんありました。
でも、正直に言えば、辛いこともありました。
けれど、不思議なことにやめようと思ったことは一度もありません。
これを美徳と呼べるかどうかはわかりませんが、
私の生き方の軸になっていることは、間違いないと言えます。
ただ自分で「美徳」なんて言ってしまう時点で、私もまだまだ未熟だなと思っています。
それでも、あえてこの言葉を使うのは、今ここに立ち止まり、自分の歩みを見つめ直す機会にもしたいと思うからかもしれません。
あと健康相談の中で、見てきたことがあります。
ペットとともに幸せになりたいという飼い主さんの美しい心が、多すぎる情報によってどんどんと濁っていくことです。
いわゆるコピペ情報や、読んだ相手の不安を煽るような情報が、もしかすると今は多くなっているのかもしれません。
科学的にはそれなりに正しくとも、心の部分がすっぽり抜けてしまった情報も多いように感じます。
現代において、ペットを飼うことは、
ときに「非合理的だ」「損だ」といった目で見られることがあります。
「高齢者が犬を飼うのは無責任」
「お金がないなら飼うべきではない」
――そんな声も聞こえてきます。
確かに、それらには一理あるかもしれません。
この先、そうした声は増えていく気もします。
でも、実際にペットを飼っている人が肩身を狭くしてしまう必要はないと思うのです。
私自身も、やがて高齢者になり年金で暮らす日が来ます。
だからこそ――
将来の私自身に、そしてすべての飼い主さんに、この言葉を贈りたいと思います。
美徳。
美徳とは、損得や常識に流されない、美しい心のありようです。
ちょっと軽い表現かもしれませんが、スッと背筋を伸ばして、シャンと立っているような――そんな感じです。
すべてに当てはまるとは言いません。
けれど、どんな苦労があろうとも、ペットを飼い、愛でる姿勢には、
この美徳に通じるものが、確かにあると私は思っています。
武道と比べるのは恐れ多いですが、
命を預かり、日々心を配り、学び、成長していくその営みには、
“道”と呼ぶにふさわしい尊さが、たしかにあると感じています。
飼い主の笑顔は、愛犬と愛猫の幸せを増やし、
そしてきっと、種を超えて――私たち自身にも戻ってくるはずです。
こうした価値観が、人と動物の社会に、
古くて新しい、高次元の喜びをもたらしてくれると信じています。
笑う門には福来たる。
私の大好きなこの言葉で、今日は締めくくりたいと思います。
最後まで聞いていただきまして、ありがとうございました。