「犬は草食動物である」とする合理的な仮説

犬は肉を食べる──この理解は、獣医学、ペット産業、家庭の常識として広く共有されている。

その根拠は、「犬はオオカミの子孫である」という進化的系譜に基づき、

肉中心のドッグフードが“本来の姿”として当然視されている。

しかし、この構図には見直すべき構造的な前提がいくつも潜んでいる。

 

本稿では、「犬は草食動物である」という仮説を提示する。

ここでいう“草食”とは、歯の形や腸管の長さではなく、

肉を摂取せずとも寿命を全うし、健康を保ち、繁殖を維持できる代謝的構造を意味する。

 

まず、歴史的な観察がこの仮説を支えている。

少なくとも縄文期以降、農耕文化の浸透とともに人間の動物性タンパク摂取量は減少していった。

その基盤の上に、平安・江戸・明治・昭和期と、長期にわたって犬も人間と同じく、

植物性中心の食生活を余儀なくされてきたと考えられる。

昭和後期から平成初期にかけても、残飯を犬に与える行為は特段珍しいことではなかった。

 

たとえば、東京都杉並区における昭和末〜平成初期の家庭では、

犬の餌は日常的に人間の残飯で構成されていた。

その中に肉が入ることはほとんどなく、もし食卓から犬に肉を与えようとすれば、

「それは子どものためのものだ」として親からたしなめられるのが普通だった。

これは都市部においても例外ではなく、地方であればさらにその傾向は強かったと推測される。

 

昭和初期までは、犬に与えられるものといえば、

野菜の皮や芯、豆の莢、米の研ぎ汁、煮炊きの副産物、あるいは腐りかけの芋など、

飽食とはほど遠い“かす”のようなものだった。

昭和後期以降になると、人間の食卓が豊かになるに従い、残飯の内容もやや改善されたが、

それでも犬に肉を与えることは依然として稀であり、

その中で犬たちは元気に生き、繁殖を続けていた。

 

犬たちは特別な栄養管理もなく、寒暖差のある屋外で暮らしながら、

人間の生活圏を守る存在として日常に溶け込んでいた。

その過程で、肉に頼らずとも健康と生殖を維持しうる構造的柔軟性を獲得していたと考えられる。

これは進化的というより、「文化淘汰」と呼ぶべき過程である。

 

では、肉を与えずして、犬たちはどうタンパク質を得ていたのか。

その鍵は、腸内細菌叢の代謝補完能力にある。

発酵性繊維を餌にして増殖した微生物群は、その死骸(菌体タンパク)や代謝産物を栄養源として再利用させる。

また、飢餓時には糞食も行われた。糞は未消化の炭水化物やわずかな菌体を含み、

腸内再発酵を通じて、代謝維持の補助手段となり得た。

加えて、未検証ながら、腸内細菌によるアンモニア同化や非タンパク窒素の再利用といった

**軽度の“窒素循環”**が行われていた可能性もあり、

極度の肉不足下においても、最低限の代謝恒常性が保たれていたと見ることができる。

 

植物性中心の食生活を送っていた犬たちは、筋肉量や瞬発力において若干の低下があった可能性はあるが、

皮膚疾患やアレルギー、慢性炎症といった現代的な病態は、

当時の文献や記録においてはほとんど言及されていない。

もちろん、当時の獣医療は主に家畜医療が中心であり、

小動物に対する診断技術や病理的な追跡も未成熟だった。

それでも、報告の少なさと犬の生活実態をあわせて考えるならば、

こうした疾患は少なくとも深刻な問題としては扱われていなかったと推察される。

 

現在、肉主体のフードが常識となった背景には、制度と社会構造との整合性がある。

犬はオオカミの子孫であるという理解は、獣医学、ペット産業、栄養学に広く組み込まれており、

その前提に基づく設計としてドッグフードは現代社会に極めて適応的である。

それゆえに「肉が必要である」という理解は、制度と齟齬がないがゆえに“正解”となり、

他の可能性が検討されにくい文化的構造を形成している。

 

また、犬とオオカミのDNA一致率(約98.8〜99.9%)が、

「犬が肉食動物であることの根拠」とされる場合もあるが、

この主張は論理的に脆弱である。人とチンパンジーも約98%の遺伝子を共有しているが、

それが生活様式や食性の一致を意味しないことは明白である。

遺伝子の一致率は“潜在的な類似”を示すにとどまり、代謝や文化的適応の“構造”を語るものではない。

 

犬とは何か──

それは野生の延長としての捕食動物ではなく、

人間の文化に寄り添い、その余白に適応してきた“生活圏動物”である。

その柔軟性と共生性こそが本質であり、

「肉を食べずとも生き延びた」という事実は、犬という存在の再定義に足る構造的証明である。

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